崖の上のさだし

崖の上のさだし

落ちても死なない。

障害は個人の側ではなく社会側にあるのではと思うんです。

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障害は個人の側ではなく社会側にあるのではと考えます。 

一価値軸な社会においてのみ障害が生まれる

例えばよく動く子供がいたとします。自然豊かな野原で犬のジョンと元気に駆け回ります。周りの大人達も笑顔になります。

しかし、その子が都会の学校に行くと途端に‘困った子’になります。授業中じっとしてられず、大人達も困惑顔になってまいます。

しかしよく動くことは悪いことでもなんでもないはずです。

じっとしておくことが正しいとされる教室という空間においてのみ、よく動くことが多動性とまでラベリングされ、障害にまでなってしまいます。

一価値軸的社会においてのみただの特徴が障害になってしまうのではないかなんて思います。

障害が生まれたのは大量生産が始まってから

障害という概念が生まれたのは大量生産が始まってからという説があります。

同じ作業を同じスピード、同じクオリティで行うことを求められた時にそれができない人達が障害とされました。

社会が均一的であることを求めたからこそ、そうでない偏りの強い人達が障害を持っていることになってるだけだと思うんです。

表現力の衝撃

あるプログラムで障害者の方と課外活動をするというものに参加したのですが、その時に声が出せず手があまり動かせない女性に会いました。

その方が身体全身を使って感情を表現するんです。面白いことがあったら口を目一杯あけて笑うし、共感することがあったら身体全体を揺らして、同意を表す。

彼女の表現力に驚きました。

僕たちは普段言葉に頼りがちでこんなに全身を使って感情を表現する人は見たことがなかったからです。

なにかができないってことはなにかができるって事だったりするので、できないことをできるようにできるようにって方向は個人的になんか違う気がしています。

それよりも多様な特徴を持った人達が活躍できる場を作ったり、僕達一人一人が違いを受け入れられる場を作る事が重要なんじゃないかなんて思います。


以上になります( ´∀`)

他人にイライラするときは大抵言いたいことが言えてない時だと思う話

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誰かといる時にイライラしてる時は大抵言いたいことを言えてないときだと思います。

相手のせいでイライラしてると思ってる時でさえ

相手のせいで自分はイライラしてるのだと思っている時でさえ、突き詰めていくと、それは言いたいことを抑えているためだったりするなぁなんてよく思います。

僕はずっと言いたいことを言わずに他人と関わってきたので、相手に腹を立ててしまうことが多くありました。

表面的には感情のトリガーは相手の言動なので、僕は「こいつのせいで不愉快だ」と思いがちでした。

考えてみると『うまく伝わってない』『意図と伝わってることが違う』ということに腹を立ててんだと気づきました。

「もっとこうした方がいいよ」「いや大丈夫だよ」

例えば、相手に腹がたったときに「嫌われるからもっとこうした方がいいよ」と言ってしまうシーンをよく見かける気がします。

相手は「いや大丈夫だよ」と返して、余計に腹を立てますが、これは当たり前の理屈だと思います。

偽りのあなたのため

相手は「もっとこうした方がいいよ」に対して素直に返しただけですし、自分が腹を立てていることは相手に伝わりません。

「もっとこうした方がいいよ」はいかにも相手のためを思っているように聴こえるので、相手の返事はだ「大丈夫だよ」になってしまいます。

でもこの時おそらく主体の伝えたいことは「あなた言動で嫌な気持ちになった」ということだと思います。

「嫌な気持ちになった」ということを「もっとこうした方がいいよ」で汲み取ってもらうことは、なかなかできません。

素直に嫌だったって言えばいい

僕にもこのような経験があります。

僕が友人の家に行ってポケットからにんにくを取り出して、料理に使おうと言って机に置くと、友人が「さだし、そういうのやめた方がいいですよ」と言いました。

なんで?と尋ねると「ポケットって汚れてるしそういうの印象悪いですから」と言います。

僕はにんにくは皮があるから、剥げばきれいに食べられる、ポケットに入れるのが汚いという理屈がわからなかったのでその旨を伝えました。

それでもやめた方がいいですよ、と言うのでもう一度なんで?と訊くと、「僕はきれいだと思わないので机に置かないでほしい」と友人は言いました。

最初から素直に言えばいいのになぁと思いました。

You message と I message

他人へのメッセージには You message と I messageがあります。

「そんなんじゃ嫌われるよ」「あなたのために」「こうした方がいいよ」が You message で

「わたしはこう感じた」「こうされるのは嫌だ」「こうしてほしい」が I message です。

基本的には I message の方が相手に響きやすいようです。

遅刻もそう

「遅刻はいけない」もそうだなと思います。

相手が「遅刻をしてもいい」という価値観を持っていると、『遅刻はいい・悪い』の議論になってしまいます。

「遅刻はいけない」という一般論よりも、遅刻をされてこういう迷惑があった、こういう気持ちになったと伝えた方が相手も自分の行動について考えると思います。

人間は他人をコントロールできない

人間は他人をコントロールできません。

他人に対してできることはせいぜい自分の気持ちを伝えることぐらいなので、そこを大事にするとお互いにとって健康的だと思います。

気持ちを伝えた後、相手がどうするかは相手に任せてしまっていいのではないのでしょうか。

気持ちを伝えた時点で自分の問題はほとんど解決しているはずです。


自分がイライラするのは自分のせいだというのは酷なようで救いでもあるように感じます。

なぜなら自分次第でなんとかできるからです。相手のせいであれば改善のために自分にできることはありませんから。

以上になります。

自分を許してやろうと思いました

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僕はずっと自分が嫌いでした。

思ってもないこと言って、本音を隠して、言いたいことを言わない世界が嫌で嫌で嫌だったのですが、僕もマネして隠しました。

自信なんて持てるわけなかったなと振り返ってみてしみじみ思います。

心の奥底の自分は僕を信用していない

自分に誓いを立てるのはとても怖いですね。

なんでかなって考えたら心の奥の自分は僕の事を全く信じていないのです。僕は何度も何度も自分を裏切りました。数えきれないほど。

傷つけられたらその相手と一緒になって自分を責めました。「なんでできないんだ」「おまえが変なんだ」 むしろ相手よりも自分を責めました。「おまえなんかいない方がいい」

そりゃ自分を好きになんかなれるわけなかったなと思います。

いつだって必死でした

しかし、嘘をつかずには僕は生きられなかったのかなとも思います。いつだって必死だったなと思い出しました。

今まで吐いた嘘が僕をここまで連れてきてくれたなら、もういいやと思いました。

逃げて逃げて逃げて来た結果、今周りにいる人達に会えたならそれでいいやと思いました。

嘘で逃げた自分も必死でもがいた自分もまあ頑張ったなと思います。

僕は自分を許す事にしました。

今いる周りの人がだめさを受け入れてくれました

もがいてもがいてもがいた結果、周りには優しい人達が居ました。

その人達は、僕のだめさを受け入れてくれます。

僕ができるとかできないとか関係なしに一緒に居てくれます。

だから心の奥底の自分が僕を許してくれたのかなとも思います。

歌にしました

その時感じていたものを歌にしました。



自分の人生を全うします。

お読み頂きありがとうございます。

コンプレックスって周りの人次第だなと思った話

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ここ最近コンプレックスについてよく考えています。

僕の結論はコンプレックスは周りの人次第じゃないかということです。  

コンプレックスについて考えるようになったきっかけ

先日、就職するという決意表明をFacebookですると、ある友人が電話をくれました。

その時、自信のなさや自己肯定感の低さ、コンプレックスの話になりました。

「わたしコンプレックスだらけだよ」と言うのですが、僕から見ると彼女は言いたいこと言うし、やりたいようにやってるように見えていたので、驚きでした。

『コンプレックス』について一時間ほど話した時の気づきをまとめます。

その友人のコンプレックス

許可をもらったのでその友人のコンプレックスを例に出しつつ書いていきます。

彼女が教えてくれた自分のコンプレックスは以下2つです。

・気を使いすぎる
・背が高い

気を使いすぎる

その友人は一緒にいる人の顔色を伺い過ぎてしまうと悩んでいました。

人がどう思っているか気にしすぎる人はわりと日本人に多い気がしています。

僕はどちらかというとその友人は日本人ぽくないと感じていて、実際自分の主張をはっきり伝えるし、ファッションなんかも着たいものを着てて独特でした。

しかし、思い返してみると電話をくれたときなんかは、絶対に「急にかけてごめんね」とすごく気を使っていることを思い出しました。

背が高い 

その友人の身長は170cmあり、女性のなかでは高い方に属すると思います。

小学生の時から160cmあり、背の順でもいつも後ろで、男子よりも後ろにいるのが嫌だったと話してくれました。

なんでそれがコンプレックスなのか?

彼女と話していると、「なんでそれがコンプレックスなんだろう」と気になり始めました。

相手への気遣いができることは良いことだと思いますし、背が高くて困ることもそんなにないのでは、と思うのです。

気遣いのコンプレックス

気を遣う事に関しては、気を遣いすぎて自分が疲れてしまって嫌だということもあると思うので、そうなのかと訊いてみると「うーんそんなことはない」と言います。

じゃあ気を遣うのがなんでコンプレックスなの?と訊いてみると、うーん。。と少し考えた後に話してくれました。

「多分やけどね。よく『あなた気遣いすぎじゃない?こっちも気疲れしてしまうわ』って言われよったちゃん。それが嫌やった」

『気遣いすぎじゃない?』と割りと否定的に言われる事が多いようで、それが彼女が自分の気遣いな性格をコンプレックスと感じるようになった原因のようです。

背の高さのコンプレックス

背が高い事に関しては、「あそこにあるものとって!」といつも頼まれたり、「背が高いからスポーツできるでしょ?」という偏見が嫌だったそうです。

自分はスポーツができないのに、背が高いからできると思われるそのギャップがつらかったそうです。

事実背が高いこととスポーツができることは関係ないですもんね。

コンプレックスは周りの人次第

ここで結論に戻りますが、コンプレックスは周りの人次第だなと思います。

気を使う事も背が高いこともただの特徴でしかないのに、コンプレックスになってしまっているのは変です。

そして、その特徴でしかないものをコンプレックスにしたのは彼女の周りにいた友人です。

例えば気を遣うことも、否定ではなく「気遣ってくれてありがとうね」と言ってもらえれば多分コンプレックスにはならない。

背が高い事も、ものをとってあげて「いつもありがとうね。自分じゃとれないから助かるわ」と言ってもらえれば、コンプレックスにならない。

そんな風に思います。

とは言ってももうコンプレックスになってしまっている

じゃあすでにコンプレックスを持ってしまった僕たちができることは何かといったら、『環境を変えること』だと思います。

自分の特徴に対して無頓着で居てくれるか、ポジティブなフィードバックをくれる人達を自分で探して、その人達と一緒にいることだと思います。 

そしてそういう人達を見つけるにはとにかく人と会うことです。

じっとしてても相手は変わってくれないので、自分の身は自分で守るしかないです。


個人的には他人の特徴に対して、違うのは当たり前だという前提で無頓着でいられた方が、世界は平和なんじゃないかと思っています。  



以上になります( ´ ▽ ` )ノ