崖の上のさだし

崖の上のさだし

落ちても死なない。

障害は個人の側ではなく社会側にあるのではと思うんです。

f:id:Sadashi:20181209003059p:plain

障害は個人の側ではなく社会側にあるのではと考えます。 

一価値軸な社会においてのみ障害が生まれる

例えばよく動く子供がいたとします。自然豊かな野原で犬のジョンと元気に駆け回ります。周りの大人達も笑顔になります。

しかし、その子が都会の学校に行くと途端に‘困った子’になります。授業中じっとしてられず、大人達も困惑顔になってまいます。

しかしよく動くことは悪いことでもなんでもないはずです。

じっとしておくことが正しいとされる教室という空間においてのみ、よく動くことが多動性とまでラベリングされ、障害にまでなってしまいます。

一価値軸的社会においてのみただの特徴が障害になってしまうのではないかなんて思います。

障害が生まれたのは大量生産が始まってから

障害という概念が生まれたのは大量生産が始まってからという説があります。

同じ作業を同じスピード、同じクオリティで行うことを求められた時にそれができない人達が障害とされました。

社会が均一的であることを求めたからこそ、そうでない偏りの強い人達が障害を持っていることになってるだけだと思うんです。

表現力の衝撃

あるプログラムで障害者の方と課外活動をするというものに参加したのですが、その時に声が出せず手があまり動かせない女性に会いました。

その方が身体全身を使って感情を表現するんです。面白いことがあったら口を目一杯あけて笑うし、共感することがあったら身体全体を揺らして、同意を表す。

彼女の表現力に驚きました。

僕たちは普段言葉に頼りがちでこんなに全身を使って感情を表現する人は見たことがなかったからです。

なにかができないってことはなにかができるって事だったりするので、できないことをできるようにできるようにって方向は個人的になんか違う気がしています。

それよりも多様な特徴を持った人達が活躍できる場を作ったり、僕達一人一人が違いを受け入れられる場を作る事が重要なんじゃないかなんて思います。


以上になります( ´∀`)